フィールドワーク便り
Fieldwork News
Asian and African Area Studies
ケニアの首都ナイロビには,政府機関,ホ テル, 会社の事務所などの高層ビルが林立し, そのあいだを車や人びとの込み合った流れが 行き交う.道端では古着や雑貨を並べる行商 人が大声で客を勧誘し,車のクラクションや 人びとの会話のさざめきなど,騒々しいほど にぎやかな物音が街中を包む.ここナイロビ はケニアの政治・経済・文化の中心であり, 大勢の人やものでごったがえす大都会だ. ナイロビ市内の車道では,派手な絵柄に包 まれた車が高速で走り回っている.これは, スワヒリ語で「マタトゥ(matatu) 」と呼ばれ, 主要な道路を運行する乗り合いバスである. その大きさはワンボックスカーほどのサイズ からトラックほどのものまである.ボディー には,歌手の顔を表す絵や,まるで暗号のよ うに不可解な文字列などが描かれており,ど ことなく,路地や外壁にスプレーで描き出さ れたいたずら書き-「グラフィティ」と呼ば れる大衆的な芸術-のような印象を受ける. マタトゥという乗り物は,現代の若者を中心 とする独特の文化の一部であり,ナイロビの 街をカラフルに彩りながら駆け巡っている.
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... 利な方法は,マ タトゥのほかに,電車,バス, 1) 「トゥクトゥ ク(tuk-tuk) 」と呼ばれるエンジン付きの三 輪タクシー, 「ピキピキ(pikipiki) 」もしく * 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 1) 「マタトゥ」と「バス」は,ともに乗り合い自動車であり,ケニア人はこの 2 つの言葉を以下のように使い分 けているが,両者を明確に区別することは難しい.一般的に「バス」とは, 「ケイビーエス(KBS:Kenya Bus Service) 」や「シティ・ホッパ(Citi Hoppa) 」 , 「ダブル・エム(Double M) 」といった大資本のバス会社が運行 している大型の乗り合い自動車であり,車体には会社名のロゴが記載されているものの,派手な絵柄が描かれ ることはない.それに対して「マタトゥ」は,トヨタ・ハイエースほどのサイズのものが多く,かつ個人によっ て運営されているものが多い. 1 フィールドワーク便り 77 は「ボダボダ(bodaboda) 」と呼ばれる二輪 のバイクタクシーなどがある.タクシー業も 発達しており,従来どおりに街角などで客待 ちをするものに加えて, 「ウーバー(Uber) 」 , 「タクシファイ(Taxify) 」 , 「リトル・ライド (Little Ride) 」といった,スマートフォンの アプリケーションを利用したサービスがあ る.これらの移動手段のなかでもマタトゥ は,特に多くの人が日常的に利用する公共交 通機関である. マタトゥは,ほかにも複数の呼び名があ り, 「シェン(sheng) 」という若者言葉では 「マスリー(ma-three) 」あるいは「マッツ (mats) 」と呼ばれている.また,車両の大 き さ に よ っ て, 「 プ ロ ボ ッ ク ス(probox) 」 や「ニッサン(nissan) 」と呼び分けられて いる.マタトゥのなかには,白地の車体に黄 色い線という素朴な外観のものもあれば,塗 装や電飾などの目立つ飾りをつけたものもあ り,外観の目新しさによって呼称が異なる. 少し古びた印象を与えるものは「ワンゴラ (wangora) 」と呼ばれる一方で,意匠を凝ら したデザインを装ったマタトゥは「マニャン ガ(manyanga) 」と称えられる.ここでは, 特にグラフィティを施されたマタトゥについ て記述する. 4 3 5 2 アジア・アフリカ地域研究 第 18-1 号 78 フィールドワークが中盤を迎えた 2018 年 1 月に,わたしは車の修理場を訪れた.それ はナイロビ市内の東部に位置する「ブルブル (Buruburu) 」と呼ばれる地域にあった.こ の一角にはたくさんの修理場があり,タイヤ やホイール,そして車の修理に必要な部品を 販売する小さな店舗が並んでいる.工業化 が進むケニアの都市近郊では,このような 「ジュア・カリ」 (スワヒリ語で jua kali,熱 い太陽の意)と呼ばれる小規模な商売がよく みられる.ジュア・カリは,賃金や生産性, 労働時間など,労働条件や雇用形態が不安定 であることが多く,インフォーマル・セク ターという非公式の経済部門に分類される. わたしが訪問した修理場には,およそ 20 台のマタトゥがところ狭しと並べられ,事故 や故障,電飾の改造など,それぞれの問題が 処置される順番を待っていた.修理場で働 く「フンディ(fundi) 」と呼ばれる修理工た ちは,上下つなぎの作業服を着て,車両と車 両のあいだの狭い空間を移動しながら作業に 取り掛かっている.フンディのひとりであ る K 氏は,ナイロビにある「ケニア・ポリ テクニック」という科学技術専門学校でグラ フィック・アートを勉強したのちに,マタ トゥに絵を施す職に就いたという.40 代の K 氏には,現在 20 代の男性が見習いとして ついている. 訪問時に K 氏は,あるマタトゥに取り掛 かっており,わたしはその作業過程を見学し た.そのマタトゥは,操業中にほかの車と衝 突したために搭乗口の手すりがぐにゃりと曲 がり,ボディーには衝撃によって多くの傷が 入っていた.注文者からは「損傷した部分を 修理して,表面には特に女性たちの顔を描い てほしい」との要望があった. 注文を受けた K 氏は,まず自宅で下準備 をおこなった.インターネットを通して世 界的に人気な歌手「テイラー・スウィフト (Taylor Swift) 」 および 「リアーナ (Rihanna) 」 の画像を入手し,A4 サイズの用紙に印刷し た.その後に K 氏は,自宅で所有している 特別な機械を使って,A4 の画像を模造紙の ような大型の用紙に印刷して,これを下書き とした. つぎに K 氏は職場での作業に取り掛かる. 古新聞とテープを用いてマタトゥの窓部分な どの顔料が付着してほしくない部分を覆い隠 す.そして,マタトゥにもともと描かれてい た絵の上にスプレーで白色の顔料を塗って, もとの絵が見えないように消す.つぎは,白 くなった表面をやすりでこすってざらざらに して,顔料がより定着しやすい状態を作る. そして紺色のカーボン紙の上に下書きの紙を 重ね合わせ,ボディーにテープで固定する. そうして,描いてある下書きのとおりに鉛筆 6 フィールドワーク便り 79 でなぞってゆくと,カーボン紙をとおして白 い部分に絵柄が写される.この作業を「ト レーシング(tracing) 」と呼ぶ. つぎは絵柄を彩色する作業である.白い表 面に茶色や黄色の顔料を混ぜ合わせた肌色の 顔料をスプレーで掛けて,モデルの目鼻の陰 影をつけてゆく.このとき K 氏は,はじめ に印刷した見本の画像をそばに貼り付けて, それに時々目をやって確認しながらスプレー を塗布する.顔料は,複数の色とシンナーを 混ぜ合わせて,希望の色を作り上げる.顔料 の原液は近くの商店で販売されており,握 りこぶし大ほどの容器のものが約 50 ケニア シリング(53 円) 2) である.この作業を繰り 返すと次第に絵柄ができあがってゆく.K 氏 は,およそ 2 日間かけて 1 台のマタトゥに 3 つの絵を描き上げた. マタトゥは,外観だけでなく,内部の設備 にもこだわりがみられる.音楽を大音量で流 すスピーカーに加えて,大型の液晶画面を備 えているマタトゥも多く,なかには,座席の 背面にそれぞれ小型の液晶画面が備え付けら れたものもあり,若者に人気の楽曲の動画や 「どっきり」番組の映像が放映される.壁面 には有名な歌手の顔写真や,イエス・キリス トの祈る姿絵とともに宗教的な言葉が描かれ ていたりする.また,乗客が携帯電話を充電 できるようなコンセントを設置しているもの や,Wi-Fi ネットワークの名前とパスワード が記載されているものもある. こうしたさまざまな装置は,マタトゥの運 転席で調整される.運転席の前にあるディ スプレイには,防犯カメラを設置した後部 座席の映像が映し出されている. 「デレバ (dereba) 」 3) と呼ばれる運転手は,乗客の入 り具合を確認しながら,スイッチがたくさん ついた機械を巧みに操り,USB フラッシュ メモリーにコピーしている音楽から選曲し て,車内に流す.このようにマタトゥには, 外見・内面ともに,2 つとして同じものをみ つけることができないほど,どれも独創性に 富んだ工夫が施されている. 8 7 2) 1 ケニアシリング=約 1.05 円. 3) 英語の「driver」に由来し,スワヒリ語ではこのように表記される. アジア・アフリカ地域研究 第 18-1 号 80 1 台のマタトゥには,デレバのほかにさま ざまな役割をもつ人びとが関わっている.乗 車するときは,まず乗り場で乗客を呼び込 む「マナンバ(manamba) 」に接し,続いて 車内に乗り込むと,運賃を集金する「コンダ クタ(kondakta) 」 4) がいる.今回,聞き取 りをおこなった路線では,デレバはだいたい 1 日 に つ き 2,000 シ リ ン グ(2,100 円 ) , コ ンダクタは 1 日 1,500 シリング(1,575 円) , マナンバは 1 回の乗り降りにつき 100 シリ ング(105 円)ほどの収入があるという. あるマタトゥの 1 日の出費をみると,洗 車に 200 シリング(210 円) ,マタトゥの所 有者に 3,000 シリング(3,150 円) ,ガソリ ン代に 2,800 シリング(2,940 円) ,整備不 良や乗客の定員を超過した罰金として警察 へ の 支 払 い に 1,500 シ リ ン グ(1,575 円 ) , 「サッコ(sacco) 」と呼ばれる組合には 1,900 シリング(1,995 円)を支払い,以上の出費 は,1 日 あ た り 9,200 シ リ ン グ(9,660 円 ) になる.1 年あたり 70,000 シリング (73,500 円)ほど支払って任意保険に加入し,事故な どの出費に備えているものもある.その日暮 らしの生活をしている者が多く,不慮の事態 で車が使えなくなると収入が途絶えてしまう という. 華やかな様子のマタトゥだが,危険もは らんでいる.乗客を装った泥棒がおり,鞄 などから貴重品を抜き取ることがあるそう だ.マタトゥの運転が荒っぽいことは有名 で,事故によって多くの命が失われてきたこ とも事実である.いくつかのマタトゥの内 部では「危険な運転に対して抗議しよう」 , 「Over speeding+over lapping=death. Speak up to avoid accidents」などと呼びかけるステッ カーが貼られているのを見た.これは「ズ シャ!(Zusha!) 」というキャンペーンで, アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)の資 金援助を受けて広がっている.交通事故で失 われる命を減らすための取り組みのひとつで ある. 10 9 4) 英語の「conductor」に由来し,スワヒリ語ではこのように表記される.若者言葉(シェン)では「マカンガ (makanga) 」と呼ばれる. フィールドワーク便り 81 アジア人学生と若手研究者のための 「京滋フィールドスクール 2017」の概要と意義 倉 島 孝 行 * 2017 年 11 月上旬,京都大学大学院アジア・ アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)と東南 アジア地域研究研究所(CSEAS)は,京滋 地方を研修先としたフィールドスクール・ プログラムを実施した.参加者はブータン, ミャンマー,ラオスの 5 大学に属する大学 生,大学院生,若手教員・コンサルタントら 31 名で, 1) このうち,特に 22 名を ASAFAS への短期交流学生としても受け入れた.彼 / 彼女らの専攻は,多様な学部・学科生が混在 したブータンを除き,農林学系からなった. また,本学側のプログラムの企画・運営は竹 田教授,安藤准教授(当時) ,赤松連携助教, 報告者が担当した.このほか,河野 CSEAS 所長(当時)と太田 ASAFAS 研究科長(当 時)が懇親会とワークショップでそれぞれ本 学を代表して式辞を述べられ,附属次世代型 アジア・アフリカ教育研究センターが研修生 の各レポートを編集し,ASAFAS の成果報告 集『創発』から刊行する業務を担った. 以下ではこうしたプログラムの概要と研修 生が提出したレポートに対する報告者の所感 を紹介したうえで,プログラムの中で報告者 が目にしたある出来事と,それをもとに小考 した点について簡単に述べてみたい.それら はある研修生らがとった地域の現実とズレた 行動と,本プログラムがそのようなズレの自 覚・修正を彼 / 彼女らに促すきっかけとなり 得たかもしれないという点である. ASAFAS に属するにせよ,CSEAS に属す るにせよ通常,両組織の教員・学生らは,こ ちらから各国調査地に出向き,それぞれの現 実や動態を調査することを主とするが,本プ ログラムの特徴は各調査国の学生や若手研究 者を本邦に招き,我が国の現実の見聞,地域 * 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 1) 31 名の国別内訳はブータン 10 名,ラオス 6 名,ミャンマー15 名であった. 色彩に富み,刺激的な飾り付け...,陽気な 音楽があふれ,活力がみなぎる車内....ナイ ロビのマタトゥは唯一無二の個性を心ゆくま で表現し,日々,進化を遂げている.人びと の注目を集め,毎日の暮らしを支えながら, 今日もありったけの力で街なかを馳せてゆく. アジア・アフリカ地域研究 第 18-1 号 82 住民らとの交流を通して,彼 / 彼女らに自国 の状況を客観視する機会を提供することに あった.なかでも,本学企画・運営者らの研 究領域が東南アジアや南アジアの地方都市や 農山村での環境管理,開発実践であることか ら,本邦でも同様の場所・活動領域に属する 施設の視察,村興しの実践者などとの交流が 企画された. では実際,研修生らはどんな場所に行き, 何を見聞し,どのような人々と接したのか. 表 1 は本フィールドスクールの最終プログ ラムである.移動の車中での簡単な講義,ご く短時間の施設訪問,一般的な観光などを除 き,本スクールの主だった活動は,次の内容 からなった.1)滋賀県守山市の消防署視察 とその業務説明の聴講(写真 1) ,2)同市ゴ ミ処理センターでの同種活動(写真 2) ,3) 同市今浜・三崎地区での自治会・子供会との 1 2017 日程 / 活動地 午前 / 午後 活動内容 11/1 大阪府 参加者来日. 11/2 京都府 午前 京都大学にて竹田・安藤両教員によるフィールドスクールに関する趣旨・行程 説明. 滋賀県 午後 守山市コミュニティ防災センターおよび環境センターの視察と両所職員による 業務説明,質疑. 歓迎レセプション.守山市宮本市長および CSEAS 河野所長の挨拶聴講. 11/3 滋賀県 午前 守山市今浜地区,三崎地区にて両子供会・自治会と合同植樹活動ならびに交流. 今浜・三崎両地区の集落および営農地域視察. 午後 美崎地区婦人会提供の郷土料理等で同地区自治会と食事会. 滋賀県立琵琶湖博物館の拝観と琵琶湖環境問題に関する講義(英語)の受講. (琵琶湖博物館専門学芸員中井克樹博士「琵琶湖の生物多様性と外来種対策」 ) 11/4 京都府 午前 京都府美山町かぶやきの里視察と同地区の現状,歴史の説明受講. (CSEAS 赤松芳郎博士および普明寺住職) 11/5 福井県 午前 小浜市上根来地区の廃集落視察. 小浜市鯖街道博物館拝観と同商店街視察. 京都府 午後 宮津市にて天橋立参観(宮津美しさ探検隊森林インストラクター赤松富子氏に よる案内) . 11/6 京都府 午前 天橋立侵食問題と背景説明(CSEAS 赤松芳郎博士)の受講. 午後 京都市嵐山周辺地域(竹林と角倉了以像等)および金閣寺視察. 11/7 京都府 午前 京都大学にて各参加者レポート作成. 安藤教員によるレポート作成法講義聴講. 午後 ASAFAS 太田研究科長の歓迎挨拶および研究科に関する説明聴講. 各参加者レポートのグループ別集約および各グループ代表者による発表. 京都大学カンフォーラにて送別会. 11/8 京都府 午前 京都市清水寺,平安神宮拝観. 午後 商業施設(イオンモール京都)視察. 11/9 大阪府 参加者帰国. フィールドワーク便り 83 合同植樹(写真 3) ,4)滋賀県立琵琶湖博物 館視察とその環境問題に関する講義の受講, 5)過疎化の進行を食い止めるために観光客 の誘致など,複数の試みを行なってきた京都 府美山町かやぶきの里の視察とその現状に関 する説明の聴講,6)かやぶきの里よりも山 奥に位置し,林業以外の副業開発も困難だっ た福井県小浜市上根来地区の廃集落の視察, 7)安藤教員による実践型集合意見形成法と それに基づく各研修生の見聞内容のまとめ, 合同報告会である(写真 4) . 最後の 7)は,安藤教員が地域住民らとの 長年の共働経験から考案した集合意見のとり まとめ法を講義し,かつ実際にそれを研修 生に実践させたものである.これを除くと, フィールドスクールの内容・活動は,①本邦 地方都市に導入されている環境管理,防災シ ステムの視察,②地域の自然生態系の変化と それへの地方自治体の対応の学習,③立地条 件の差異などから過疎化問題の深刻度と対策 の可能性を異にした 2 つの中山間地域内集 落の視察と,大きくはこのような 3 つに整 理できた. 2 1 4 3 アジア・アフリカ地域研究 第 18-1 号 84 すでに冒頭で示唆したように本プログラム では各研修生に対し,フィールドスクールを 通して見聞・考察したことを,レポートとし てまとめることを義務づけた.ひとり当た り A4 で 2 枚ほどの簡単なものだったが,そ れらは本学の当初の目的が実際に達せられた のかを判断しうる貴重な資料である.した がって,報告者はこのレポート全てに目を通 した.厳密には報告者が見た初稿と,英文校 閲や校正を経た掲載稿とは全く同じではない が,各レポートの内容自体は『創発』の掲載 号でも確認できる.そこで,ここでは各稿の 記載事項に関して個別に言及することはせ ず,報告者がレポートを読み,それらに対し て抱いた全体的な所感について述べることに したい. レポート読了後の報告者の所感は,次のよ うな 3 点に集約可能である. (ⅰ)ほぼ全て の研修生がゴミ処理センターや消防署などで 見聞した自国にはない先進的な設備,処理・ 対処方法について感銘を抱き,それらの自 国への導入の必要性について言及している. (ⅱ)研修生の多数が中山間地域内集落の実 情とその過疎化問題について一定の理解を示 しつつも, 自国の現状とのギャップから(ⅰ) ほどには同種問題に対して強い関心を抱くに は至っていない. (ⅲ)レポートは当然なが ら玉石混淆である. ここでは特に報告者にとって良い意味で印 象に残ったレポートについてもう少し言及す ると,それらは社会人かその経験者,あるい は卓抜した英作文力の持ち主の作にみられ た.たとえば,詳しくは『創発』の該当箇所 に譲るが,ミャンマーから来た農業技術コン サルタントを兼ねる学生のレポートの記述に, 他の一般学生にはない体験に根ざした説得力 を,報告者自身は感じた.また,特にブータ ン人学生のレポートの一部に,ネイティブ並 みの英語表現力をみてとれ,小学校から英語 で授業が行なわれているという,その教育シ ステムの片鱗を垣間見る思いであった. フィールドスクール前半の守山市での植樹 時,ブータンからの学生が頼まれてもいない のに近くの藪から竹を切り出し,それで苗木 の廻りに柵を作り始めた.彼らとは地元守山 の小学生や中高年の方も一緒に植樹作業にあ たっていたが,その柵作りが始まってから, 特に小学生らは少しフリーズしたような状態 になった.小学生たちはブータン人学生がな ぜそんなことを始めたのか理解できず,その ふるまいを見ていた.そこで,それをやはり 横で見ていた報告者が学生に何をしているの かを尋ね,その答えを通訳して伝えると,中 高年の方は即座に笑い声をあげて反応した が,小学生たちは相変わらず彼らを見てい た.その時の学生の答えは, 「ウシ除けの柵 を作っている」というものだった. 報告者自身は都市部の非農家世帯の出身で ある.したがって,そもそもウシなど,家畜 の飼育経験はない.また,仮に農家に生まれ 育ったとしても,報告者の世代だと, 「家畜 から果樹を守るために柵を作る」と説明され フィールドワーク便り 85 ても,守山の中高年の方のようにはいかず, おそらくすぐに反応できない者も多い.報告 者の少年時代でさえ,各農家が家畜を飼う習 慣は,すでに我が国の農村から消えつつあっ たからである.ただし,報告者はタイやカン ボジアの農山村など,自らの調査地で同種の 柵を何度も目にしているので,ブータン人学 生の所作の意味をさほど時間を置かずに理解 した.だが,その時は守山の小学生たちと は,また別の意味でフリーズ状態になった. 辺りを少しでも見廻してみれば,ウシはもと より,もっと小型の家畜でさえその周辺には 見当たらず,そのような柵など不要である. その程度の観察力や想像力さえ,彼らはもた ないのかと,少し呆れたからである. ただ同時に,その時はそう思ったが,い ま本稿を書きながらこれまでの自らの現地 フィールド体験などを振り返ってみれば,報 告者自身はもっと粗忽なふるまい,たぶん現 地の人たちにとっては「不可解」にも思えた はずの行為を,いくつも重ねてきた.たとえ ば,すでに 20 年前になるが,報告者は東北 タイの社寺林利用・管理を研究テーマとし, ある森の寺に寝泊まりしながら数ヵ月間を過 ごしたことがあった. 「クティ」と呼ばれる, 僧侶が使う森の中の小屋に止住するよう住職 に指示され,そこで寝起きしつつ調査を始め たが,その数日後,小屋が樹々に覆われ日中 でも暗いので,廻りの樹木を間引いて,小屋 を明るくしてしまったことがあった.幸いな ことに住職は温厚な方だったので,怒られる ようなことはなかったが,その間引きの跡を 見た彼の呆れ顔を,報告者はいまも忘れな い.森の寺では僧侶が瞑想しやすいようにク ティの廻りに,わざわざ樹木を密に生い茂ら せ,光環境を瞑想向きに調整していたのに, 報告者がそれを「きれいに」刈り込み,僧侶 らの感覚からすれば,クティの環境を「改 悪」してしまったからである. この件はいまも報告者がよく記憶している 例だが,ほかにも特に院生時代は同種の粗忽 あるいは「不可解」なふるまいをいろいろと 重ねていたはずである.ただし,これは自ら の希望的な観測も含め,追記しておけば,同 様の行為を犯す頻度は,おそらくフィールド 体験を重ねるたびに減っていったのではな いかと思う.なぜなら,いまから思えば上 述の住職の反応も一種の触媒だったように, フィールドで出会う人々のリアクションや表 情などから,異なる文化や社会の中で自らの 行為がどのように見えるか,自然と意識する ようになり,自身の行為を少しだけ事前検閲 するようになったからである. 話を振り出しに戻すと,上記のブータン人 学生 2 人が本フィールドスクールの期間中 に,植樹活動時のふるまいのズレを実際に自 覚するようになっていたかは,定かではな い.しかし,やはりこれも報告者の希望も込 めて書けば,彼らも小学生たちや私のリアク ションから「あれ,俺たちのやってること, 何か変かな?」と,感じ取った可能性もある のではないか.彼らが普通のコミュニケー ション能力の持ち主なら,たぶんそんな風に 感じたと,報告者自身は想像する. 報告者がたまたま目にしたのは,ブータン 人学生 2 人の上述の行為だったが,ほかに アジア・アフリカ地域研究 第 18-1 号 86 「山下財宝」にとり憑かれる人々 師 田 史 子 * この質問を,幾度投げかけられたであろう か.調査地選定のためにフィリピン・ミンダ ナオ島の農村を訪問し,私が怪しい奴ではな いと判断してもらえるほどに人々と打ち解け たころ,必ずと言ってよいほどにこの質問 が誰からともなく放たれた. 「ない.おじい ちゃんに聞いてもおばあちゃんに聞いてもな いって言っていた」と即答する.ない,とだ け返答すれば,矢継ぎ早に「日本に帰ったら 家の中を探してみろ」 「祖父・祖母に聞いて みろ」と返ってくることは火を見るよりも明 らかであるので,会話の展開を先取りしてや りすごすことが,この類の話に嫌気がさして いた私の癖になっていた. 人々が求めている地図とは,山下財宝のあ りかをしめす地図である.フィリピンでは 「ヤマシタ・トレジャー」と呼ばれるこの財 宝は,第二次世界大戦終戦時に山下奉文大将 率いる日本軍によって埋められたとされる莫 大な埋蔵金全般を指す.財宝なんて埋まって いるわけがない,なぜこのような話を真に受 けているのか.これが,山下財宝に対する私 の第一印象であった.しかし,ミンダナオ島 の村々では,外来者にとってはにわかに信じ がたい財宝を,実に多くの人々が真剣に掘り 当てようとしていた.なぜだろうか. * 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 も何人かの研修生が形こそ違え,何らかの 異文化・異社会体験を今回したのではない か.仮にそうだとして,ではそれに何の意 義があるのかと問われても, 「これこれこう だ」と,即答できるような意味づけを報告者 自身,現時点ではできている訳ではない.だ が一方で,おそらくひとついえそうなのは, 普通の観光ツアーはもとより,短期留学でも できない体験を,今回のフィールドスクール は彼 / 彼女らに提供できたのではないか.そ して,そのことを通して,異文化・異社会を みる視野なり,想像力なりを彼 / 彼女らに拡 大させ得る機会を,本プログラムが確実に提 供できたのではないかという点である.もし 本当にそうだとしたら,今回のフィールドス クール・プログラムはうまくいったといえる のではないかと,自画自賛になるかもしれな いが,報告者自身はそのように考えている. フィールドワーク便り 87 人々が山下財宝に熱狂する理由のひとつに は,フィリピン国内における数多の財宝譚が ある.特に,大戦末期に日本軍が退却した中 央山地の中心都市バギオ市周辺は,財宝が数 多く存在する地として有名である.かつて日 本軍が接収した住宅や,軍病院跡,退避壕跡 など,日本軍駐留と結びついた場所で,金の 延べ棒数本や宝石類が発見されたという噂は 多数見聞されるが,発掘者が同定できること は稀であるという[梶原 1995: 22] . 20 年間ものあいだ権力を掌握し,1986 年の エドサ革命で失脚したフェルディナンド・マ ルコス元大統領は,財宝の発掘により富をな したといわれる最たる人物である.1971 年, 錠前師であるロジャー・ロハス氏がバギオ市 の山中で発掘した「ゴールデン・ブッダ」を, 強制捜査部隊が強奪し,全くの別物にすり替 えて返却した事件に,マルコスが関与してい たという[笹倉 1998] .1992 年には,マルコ スの妻イメルダ・マルコスが,夫の選挙資金 の一部は山下財宝に負っていたと認める発言 をしたことで,財宝とマルコスとのつながり に対する疑義は国民のあいだで一気に高ま り,トレジャーハンティングは熱を帯びた. 政府は 2007 年より,発掘時の事故防止や 重要文化財の保護等を目的として,発掘作業 者に対して環境天然資源省へ 1 万ペソの手 数料の支払いを義務づけている.しかし,ミ ンダナオの農村においては,政府の許可を必 要とするような,あるいは政府に目を付けら れるような大規模かつ本格的な発掘作業では なく,家の軒先の土地をスコップで掘ってみ る,というような日常的な宝探しが試みられ ているといった方が正しい.宝探しは生業の 片手間で行なわれることがほとんどである. 「ほら,あのヤシの葉で覆われたところを, 地主が掘っているんだ. 」ある日,ココヤシ 農村を歩いていると,連れ立っていた男性が こう教えてくれた.道端には,ヤシの葉やブ ルーシートで四方が覆われた箇所がいくつか あった.発掘作業を隠蔽するためのこのよう な覆いは,かえって宝探し中であることを露 骨に主張し,それが新たに他者を宝探しへと 駆り立てるかのようであった.どれくらい深 い穴なのか,のぞくことはできなかったが, 発掘作業はもっぱら手作業だという. 「あの 地主はもう 9ヵ所も掘っているけど,お宝は まだ出てきてないってよ」と呆れと期待が混 じった口調で男性は続けた. 人々が財宝探しへ誘われる理由の 2 つ目 には,宝探しを試みるに足るほどの,宝の存 1 アジア・アフリカ地域研究 第 18-1 号 88 在を担保する十分な証拠を日常的に目撃する ことにある. 稲作農村に滞在していた時,30 歳半ばの 主婦が, 「山下財宝を持っているので確かめ てくれ」と非常に内密な様子で話しかけてき た.家にお邪魔すると,壺や喫煙具などの土 器を丁寧に取り出して来た.触ろうとする と,手を払いのけられるほどに丁寧に保管さ れていた. 「家の下の川から出土したのよ. これはヤマシタ・トレジャーよね.あなた, 詳しくないの?」と迫られたものの,土器に 関して全くの無知である私は「日本に帰った ら,詳しい人に写真を見せてみる」と言って 退散したが,真相は今も確認していない. この主婦のように,実際に財宝らしきもの を発見したことは,村における財宝の存在を 証明する確かに大きな証拠となる.それと同 程度に,急激に富を築いた者の存在や,外部 からの「宝の埋まる土地」としてのラベリン グも,人々の宝探しへの動機となっている. たとえば,バイク運転手 2 人と酒を飲ん でいた時, 「トラックを買って雑貨屋で大儲 けしている A さんは,どうやら財宝を当てた らしいな」とどちらかが口火を切った. 「あ あ, ちがいない」ともうひとりが相槌をうち, 「ダバオ市に出稼ぎに行っていた時, 『君の村 は裕福なのだろう,だってトレジャーのたく さんある地じゃないか!』って言われたよ」 と興奮した口調で返答した.さらに自分自身 も財宝を見つけたことがある,と切り出し, ブラックダイヤモンドであるらしい写真を披 露した. 富を築いた者は,その背景に山下財宝の存 在を噂される.一方,富を築いた者自身は, 財宝の発掘を否定するか,あるいは財宝を怖 ろしいものとして語る.とある日,村の金持 ちのひとりが,日本風のゴールデン・ドラゴ ンの像について語り出した.彼の父の兄弟が 発見したが,ほどなくして亡くなったという. その像を受け継いだ者も急死した. 「この地 は日本兵に呪われているのだ」と金持ちは私 を責め立てるように断言した.この後,話は 戦時中に先住民がこの村で残虐な日本兵に食 われた話へと続き,日本人代表として私は彼 に謝罪するに至った. 2 3 フィールドワーク便り 89 山下財宝の話が頻繁に耳に入るのは,私が 日本人であるからである,という側面は無視 できない.日本人や外国人の訪村は,財宝を 取り返しにやって来る日本人,奪取しに来る 外国人として語られるとともに,村における 宝の存在の信憑性はそれに比例して高まる. 数年前にアメリカ人と日本人のプロテスタン ト系の宣教集団が訪村した際を回顧し,ある 人は「布教は建前で,本当は埋まった財宝の 有無を確かめに来たのだ」と疑い,また別の 人は「数年後に日本人が戦争で死んだ先祖の 元に来るらしい.宝を取り返しに来る気だ」 と語気を荒げた. かれこれ 10 年以上,ミンダナオ島の生活 支援活動をしている,とある日系 NGO に関 しても,表層では支援を礼賛するものの,陰 では財宝発掘のための活動を疑う人々は少な くない. 「あの NGO,支援活動は建て前で, 実はこの場所に宝のありかが彫られた石を見 つけたから,発掘に来ているんだ.この前, 家の裏の土地を買いたいって職員が交渉しに 来たが,その目論見がわかってたから断った ぞ」という調子である. 外国人の訪問が稀である地域において,と りわけ日本人となれば,それは人々にとり, 財宝に直結しかねない訪問なのである. このように,さまざまな場面において, 人々は財宝への想像力を駆り立てられ,実際 に宝探しへと誘われている.財宝譚は国家レ ベルのものから村落レベルに至るまで多岐に 渡って人々を刺激し,私のような日本人の突 然の訪問は宝の存在をますます裏付ける.財 宝は, 「まだ-ない」希望として,人々の未 来の可能性となる. しかし,一攫千金を夢見る人々の財宝探し への熱狂は,時に残酷な結末を残す. 調査を終え,日本に帰って来て間もなく, 懇意にしていた村の女性からメッセージが届 いた. 「あの男の子,ヤマシタ・トレジャー をお父さんと探しに行ってた時に,崖からの 落石で亡くなったよ. 」彼は自分の村に財宝 が眠っていることを信じてやまない,まだ 18 才の青年であった.私の調査にも親切に 協力してくれる,近しい存在のひとりであっ た. 山下財宝の存在は,亡霊のように,人々に とり憑いて離れない.そして今,私にも.
doi:10.14956/asafas.18.76
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