〈妊娠小説〉としてのブッダ伝 : 日本古典文学のひながたをさぐる

荒木 浩
1 『妊娠小説』 (筑摩書房、 1994 年) 1 という快著がある。文藝評論家・斎藤美奈子の単著デビュー 作である。斎藤は、一風変わったこのタイトルについて、 「「妊娠小説」 とは 「望まない妊娠」 を搭載した小説のことである」と端的に定義し、冒頭で、次のように述べている。 小説のなかで、ヒロインが「赤ちゃんができたらしいの」とこれ見よがしに宣告するシーン を、そしてそのためにヒーローが青くなってあわてふためくシーンを、あなたも目撃したこ とがあるでしょう。 〔......〕 「妊娠小説」とは、いわば、かかる「受胎告知」によって涙と感 動の物語空間を出現せしめるような小説のこと、であります。しかしながら、旧来の文学史 や文学研究、文学批評はこのジャンルを今日まで頑として黙殺しつづけてきました。まった く遺憾なことである、といわなければなりません。 ここで提示される「受胎告知」は、聖者の annunciation とあえて同じコトバを用いつつ、狙 いはその真裏にある、 といえるだろう。斎藤は、 この基準から、 森鷗外の『舞姫』 (1890)を「わ が国最初の 「近代妊娠小説」
more » ... 破する。そして島崎藤村の『新生』を「今日に残る「出 産系」の名作」と規定し、両作を「妊娠小説」の「父」と「母」だと呼ぶ。このように、本書 は、近代文学のしかつめらしい構図と歴史をシニカルに茶化しながら、これまでのカノンを転 覆し、新しい小説史へと刺激的なパースペクティブを提供する。 しかし、私にとってより興味深いのは、本書が展開する「妊娠小説」論の叙述を参照するこ とで、日本古典文学の構図といくつかの情景が、別の光で照らし出されることである。たとえ ば『源氏物語』にも、 「赤ちゃんができたらしいの」という「受胎告知」を想起させる、 「妊娠 小説」顔負けの著名な二つの場面がある。しかもそれは、遠く離れた場面に配置され、時間も 状況も異にするエピソードながら、それぞれ密接に呼応し合って、物語の基軸を支えているの である。 2 -1 その一つは、第一部の若紫の巻にある。若紫巻は、その始まりに、まだ十代の光源氏が「十 とを ばかりにやあらむと見え」る紫の上を垣間見て、 初々しい恋心を抱く場面を描く 2 。多くの「源 1 引用は 1997 年刊のちくま文庫版より。 2 以下、 『源氏物語』の引用は『新潮日本古典集成』 (石田穣二・清水好子校注)による。 54 〈妊娠小説〉としてのブッダ伝 氏絵」が残されていることからも知られるように、それは『源氏物語』の中で、もっとも人気 のあるシーンの一つである。その時光源氏は、愛らしい幼女の面ざしに、父桐壺帝の後妻・藤 壺の面影を透かし、義母へのあこがれをあらためて強く喚起される。藤壺は、じつは紫の上の 叔母にあたり、その類似には根拠があった。そして若紫巻は、紫の上への純情な思いと裏腹に、 光源氏が藤壺に対して抱き続けた、あやにくな積年の思いを果たす場面を続けて描くことにな るのである。 「藤壺の宮、なやみたまふことありて」 、宮中を退出した時のことだ。光源氏は、 「かかるを りだにと」気もそぞろ、 「昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、王命婦を責めありきた まふ」 。この王命婦という女房が手はずを付け、 「いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たて まつる」 。光源氏は強引に藤壺と逢瀬を果たした。ただし藤壺の心内語に「あさましかりしを おぼしいづるだに、世とともの御もの思ひなるを」とあるので、どうやら初めてのことではな かったらしい。 しかし物語は、その初会ではなく、この「あやにくなる短 みじかよ 夜」についてのみ嫋 じょうじょう 々と叙述する。 それには理由があった。藤壺はこのあと、 「なやましさもまさりたまひて」体調の異変に気付 き、妊娠を覚知するからである。彼女は「人知れずおぼすこともありければ、心憂く、いかな らむとのみおぼし乱」れ、とうとう「三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人々見たて まつりとがむる」 。藤壺はこの夜、夫である帝ではなく、その子光源氏の子を宿してしまった のである。 ヒーロー光源氏への「受胎告知」は、 「これ見よがし」の「宣告」ではなかった。それは、 ブッダや聖徳太子が母に受胎した時のように、 「夢」で果たされる。ただし母への告知ではな い。父の夢であった 3 。その意味で、母にもたらされる annunciation とはより対比的である。物 語は「中将の君〔=光源氏〕も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、合はする者を 召して問はせたまへば、 及びなうおぼしもかけぬ筋のことを合はせけり」と語る。そして彼は、 夢合わせによって、その恐ろしい妊娠を知るのである。 この驚嘆すべき姦通によって「青くなってあわてふためく」のは、ヒーローだけではない。 秘密を共有するヒロイン、藤壺の方がより深刻である。生まれる子の認知をめぐって、父・桐 壺帝は自分の子であると疑いもしない。その美しさが光源氏にそっくりだと、当の光源氏と藤 壺に自慢して、真実を隠す二人を恐 きょう 懼 く させる。 例の、中将の君〔=宮中に参上した光源氏〕 、こなたにて御遊び〔=音楽〕などしたまふに、 抱 いだ き出でたてまつらせたまひて、 「御 み こ 子たちあまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどよ り明け暮れ見し。されば思ひわたさるるにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。いとちひさ 3 藤井由紀子「 〈懐妊をめぐる夢〉の諸相 説話と物語のあいだ」 (荒木編『夢見る日本文化のパラダイム』 法藏館、2015 年所収)は、懐妊譚の夢について、古代・中世の説話と物語について広範かつ詳細な調査を行い、 「本朝の説話集に見られる懐妊譚の霊夢は、基本的には、聖なるものと母との、他者を介さないダイレクトな 交渉を示すもの」であり、 「聖母マリアの処女受胎に代表される、 「より広い 「感精譚」 と呼ぶ話型」 〔=河東 仁『日本の夢信仰 宗教学から見た日本精神史』玉川大学出版部、 2002 年〕の系譜に連なる」ことを指摘し、 原則は母の夢として果たされる受胎告知が、 『源氏物語』を契機として「父の夢」に変わってしまうこと、そ して「それは、 〈密通〉による懐妊を示す夢なのである」と論ずるなど、すぐれた史的考察を行っており、本 稿の以下の考察に示唆的である。
doi:10.15055/00006873 fatcat:7a4haavecfe2jmugrtjo72gs7y